スティーブンキングの「書くことについて」を再読したので、感想をかきます。
久しぶりに読み返してみて、ほとんど忘れていたなぁ、というのと、自分の主義になっているところを発見しました。
内容は忘れていたのに、自分の創作スタイルの核になっていたのかもしれません。
文芸とはテレパシーである
この本の中で語られていた言葉です。
「ウサギの背中に青インクで8という数字が書かれている」という説明の後の文章が素晴らしいんです。
なによりも大事なのはニンジンをかじっているウサギでは無く、背中に書かれた数字である。
それは6でもないし、4でもないし、19.5でもない。8である。
それがわれわれの見ている物であり、見えている物である。
私は何も言っていない。あなたも訊いていない。私は口をあけてもいない。あなたも同じだ。
われわれは同じ部屋に居るわけでもないし、同じ時間を共有しているわけでもない。
にもかかわらず、われわれはいっしょにいる。あなたと私のあいだに、へだたりはない。
心と心が共鳴しあっている。
(中略)8を送信した。あなたをそれを受信した。
(中略)これこそがテレパシーである。
この文章を読んだとき、鳥肌が立ったことを覚えています。
久しぶりに読んでも、ぞわっとしました。
直接会ったこともない人に、自分のイメージを伝えることができるなんて、確かにテレパシーです。
小説というより文章のそのものの凄さを認識しました。
私たちはそんなすごい物を扱っているのだから、すごいことが出来るはずです!!
プロットを練ることと、ストーリーが自然に生まれでるのは、相矛盾する
スティーブンキングはあれだけの作家なのに、プロットをあまり重視せず、ストーリーを成長させて小説を作っているそうです。
昔読んだときは不思議に思いませんでしたが、日本のプロ作家はたいていプロットの重要性を語るので、それを知った後に改めて聞くと驚いてしまいます。
「ストーリーは以前から存在する遺物であり、その遺物をできるかぎり完全な姿で掘り出さないといけない」
「プロットは巨大な削岩機のような物であり、化石を粉々に砕いてしまう」
とも言っています。
実際、自分もそのように思っていて、プロットで書くといかにも「筋書き通り」な展開の予測がついて堅苦しい物語になってしまうと感じています。
だからこそ、プロットをあまり重視しない派なのですが、そのせいで長編がうまく完結しないという問題を抱えています。
そのせいで「やはりプロットは大事かも」と思い始めているのですが、プロット重視に乗り換えようと思っている自分にスティーブンキングはこう言いました。
結末にこだわる必要がどこにあるのか。どんな話でも遅かれ早かれおさまるべきところにおさまるものなのだ。
この発言はすごい。
自分が「やはりプロットは作らないとダメか……」と思いかけていたところに、この言葉がグサリと刺さりました。
たしかに、そうなんです。
ただ、そうすると長さが事前に読めないのです。規定枚数の作品を書こうとすると、プロット無しの書き方では足りなかったり、はみ出したりしてしまうのです。
しかし、スティーブンキングのこの言葉で、やはりプロットでは無くストーリーを積み上げて書いてみようと思い直しました。
たくさん読み、たくさん書け
他の作家と同じ事をスティーブンキングも言っています。
やはり、たくさん読むことは大事なのでしょう。
最近、なかなか読書できないときが多くて、身につまされます。
でも、「優れた作品より、出来の悪い作品からの方が学ぶことが多い」とも言っていますから、ヒット作を読むのでは無くあえて駄作を探してみるのもいいかも……
たしかにダメなところは目立つから、教訓にしやすいです。
あと、「もっとも貴重なレッスンは、自分で自分に教えること」だとも言っています。
その通りかも知れませんが、そうするとこのサイトの存在意義が無い……。
ま、このサイトが創作の補助程度になればいいと考えましょう。
人生は芸術の支援組織では無い。その逆である。
書けなくなる恐怖のために麻薬漬けになったエピソードの最後の言葉。
小説のために人生をめちゃくちゃにしてはいけない。人生のために小説を使え。ということだと解釈しました。
まとめ
個人的には「ストーリーは古代から存在する遺物であり、作家は手持ちの道具をつかってそれをできるだけ完全な形で掘り出さないといけない」という考えが、とてもぐっときます。
プロットで人為的に作る物ではなく、ただそこにあるものを掘り出してくるという感覚は、自分にはすごく合います。
プロット重視派の人が聞いたら「なんじゃそりゃ?」となるかもしれませんが。